月美の卑屈を生きる詩

感情のおもむくままに

犠牲

男が耳にあてた携帯電話の受話口から、女が男の名前を呼ぶ。
……君。息も絶え絶え、と言った風に。
焦ったような怯えたような顔をして、男は早口で捲し立てる。
「〇子、もう出てくるな。自分がどうして34キロまで痩せたか考えてみろ。仕事と俺と、両方うまくやろうとして、それで痩せたんだろうが」
プツッと電話が切れる。
男が小さく笑みを浮かべて、助手席の私の方を向く。
「〇子、一生入院確定。最後のお里帰りでお母さんの家からかけてきたんだな」
私は返事に困って、黙ったままでいる。
その女に関するこれまでの男の台詞が頭の中でリフレインする。
「俺のこと好きや好きや言うて」
「俺を独占しようと料理で20キロ太らされた」
「Sさんも〇子の飯、上手い上手いって」
預かってクローゼットにしまってある女の手紙の文面を思い出す。
「昨日、あなたと私の子供が死にました。あなたが半年ぶりに戻ってきてくれた時は、
本当に嬉しかったけど、このままだとお互いに悪くなるから別れましょうね」
「私は弱いけど、あなたは強いから大丈夫ね」
男と長年知り合いの女がこっそり私に教えてくれた秘密が浮かぶ。
「あの二人は心中しようとしたんやで。うちに電話かけてきて、今から死んでくるわって
東京に行ってん」
「あの子は卑怯やねん」
「あんた、〇子と被ってるわ。〇子と同じこと言うって、あいつが言ってた」
助手席の窓越しに真夏の青い空を眺めながら、とめどなく言葉が胸を過っていく。
「おいこっち向け」
男が私の両耳の辺りを持って、自分の方へ顔を向き直らせる。
「君はどこか〇子に似てるし、手元に置いておく。幸せになるのを見届ける」
歯の浮くような台詞に私はあやうく笑いだしそうになった。
同時に嫌な予感と不安にかられる。
この男から離れなければ。
それなら離れればいい。
見捨てられ不安が私を逃げられなくさせる。
逃げなければ。
蹂躙の夏が終わる前に。
いつか私もこの男にまるめこまれ、おかしくなってしまうだろう。